ジオとともにある人々の営み

信仰・歴史

 筑波山地域の地形の特徴は、人々の信仰や歴史に大きな影響を与えてきました。筑波山は、関東平野にそびえ立ち、硬い、斑れい岩による2つの峰と美しい山裾を有することで、古代より山自体を御神体とする山岳信仰の対象とされてきました。また現在の石岡市には常陸国の国府(国衙)や国分寺・国分尼寺が置かれ、大和朝廷は常陸国を日が昇る東に位置することから東北につながる重要な国とみなしていました。

  弁慶七戻り


  史跡 常陸国分寺跡


  筑波山 白蛇神社

 民俗文化・芸術  

 筑波山地域のジオの独自性は、時代や地域を超えて人々に愛され、文化芸術を生んできました。甲乙つけがたいものやライバルを比較するときに、「西の○○、東の○○」と表現されます。「西の富士、東の筑波」もその一つで、万葉集には筑波山を詠んだ和歌が25首あります。  

 また桜川市の桜は国の天然記念物に指定され「西の吉野、東の桜川」と呼ばれ、江戸時代には、隅田川堤や玉川上水堤をはじめ、江戸の花見の名所に大量に移植されました。

  隅田川堤春景 

        朝倉治彦・鈴木棠三校註『新版 江戸名所図会 下巻』角川書店 

 暮らしと産業  

 筑波山地域の人々の暮らしの大部分は、海水準変動に伴って誕生した平野部で営まれており、古代から現代まで、霞ケ浦は海の入り江から汽水湖、淡水湖へと変化し、その生態系とともに、産業や人々の暮らしに大きな変化をもたらしてきました。  

 古代から中世(奈良時代~室町時代)にかけて、常陸国府への物資の運送や東国三社(鹿島神宮、香取神宮、息栖神社)への参詣などにかかわって、水上交通が発達した。戦国時代から江戸時代にかけては、遠い場所に兵糧物資や築城の資材などを運ぶために、水運は一層発展しました。

 また、江戸時代に水運が整備されると、様々な好条件から醤油醸造が発展しました。江戸時代には、江戸の日本橋、蔵前への年'貢米の運搬、江戸の町で消費される木材、薪炭、醤油、清酒をはじめ、霞ヶ浦沿岸の村々のさまざまな農産物、特産品などを、高瀬船(百石船、干石船)に積み、大消費都市となった江戸へ運んでいきました。帰りの船には、衣料品、塩、砂糖、肥料に使う干鰯など、さまざまな生活用品が積み込まれました。このように、江戸と農村間の商品流通の推進役を水運が担いました。
 

 明治時代には、さらに蒸気船の通運丸が就航し、定期航路が開設され、水運はますます盛んになっていった。昭和期になると、ディーゼルエンジン船のあやめ丸、さつき丸が就航し、水郷観光にも大きな役割を果たしました。 

 一方、明治、大正、昭和と常磐線などの開通、道路や橋の路線バスの運行などによる陸上交通の急速な発展によって、特に、第二次世界大戦後になると、水運は次第に衰退していきました。 

 霞ヶ浦は国内第2の広さを誇り、ワカサギ、シラウオ漁や沿岸地域の他は田を潤す農業用水など、湖の恵みは古くから人々の暮らしを支えて来ました。しかし、元来は海から続く入り江で遠浅の霞ヶ浦は洪水や塩害などの被害が絶えませんでした。そこで、大規模な霞ヶ浦開発事業が行われ、現在では茨城県をはじめ首都圏の貴重な水源として利用されています。平坦かつ広大な筑波稲敷台地と安定した地盤や、霞ケ浦等の豊富な水資源が大きな評価要因とされ筑波研究学園都市が国家事業として建設されました。

  明治時代の主な河岸


 松浦茂樹著『湖辺の風土と人間-霞ヶ浦』出版「そしえて」

 霞ヶ浦の水を利用している区域 


2015年3月27日(金)読売新聞 朝刊31面 

 【参考文献】

  筑波山地域ジオパーク推進協議会・つくば市ジオパーク推進室  
                      『めざせ!筑波山地域ジオパーク』

      同上  『筑波山地域ジオパーク構想』